どこを切り取るか。

『リリウム』を能にしようという時に、一番最初に思ったのは 

シルベチカとリコリスの関係が、能『二人静』みたいだ。

ということから始まったというのは、前回のブログで書いたと思います。



※能『二人静』のイメージ写真。
静御前の亡霊を慰めるために静の衣装を身にまとった吉野の里の女。(右) それに寄り添うように立つ静御前の霊。(左)



※『二輪咲き』のイメージ写真。シルベチカ(左)に寄り添うように立つリコリス(右)。


この『二輪咲き』は『リリウム』本編の前日譚として描かれているため、シルベチカはまだ生前の姿。

リコリスは彼女に憑りついた想念なので、まさしく、吉野の里の女(生者)に憑りついた静御前の霊(死者)のように感じました。


先述したとおり、これを能にしたいと思いますと、能『経政』のように、生前の姿よりも、死霊として夢か幻と出現したほうが能にしやすいので、シルベチカは死んだあとに亡霊として現れた、とした方が都合がいいですね。


そこで思いつくのが、死後も小野小町に憑りつき、彼女の死後も地獄の果てまで追いかけて行った深草少将の怨霊を描いた、能『通小町』です。



※能『通小町』のイメージ写真。
小野小町の亡霊(右)に、死後もなお憑りつく深草少将(左)


小野小町は絶世の美女として名高く、多くの貴公子が求婚したが彼女は全く意に介さない。
深草少将は地位も名誉も才覚さえも備える貴公子として、何としてでもこの美女を我が物にしたいと言い寄るが、これも小町は突っぱねてしまう。
何とかと食い下がる少将に、小町は「ならば明日から百日百晩、ここへ通い続けてください」というと、それくらいのことと少将は毎晩彼女のもとに通い続けた。
はじめは精一杯のおしゃれで通ったが、悪天候やら自分の都合やらでなかなかままならず、下人の様な恰好になっていったが、それでも通い続けた。
そして、満願の百夜目。ふたたび考えられる限りのおしゃれで臨んだが、途中、雪に足を取られて崖から落下。ついに命果ててしまった。


これがいわゆる「深草少将の百夜(ももや)通い」という有名な説話で、これをもとに能が作られているわけですが、能の方では、小野小町の死後、その亡霊に憑りついた深草少将の怨霊が、双方とも成仏できないまま京都郊外の市原野に地縛霊として留まっていたのを、あたりをたまたま通りかかった僧の授戒によって両人ともに菩提が成就したという内容になっています。

この深草少将の粘着質なところが自分に似てるなと思って、わたくし、Twitterの自己紹介画面のヘッダーにしているくらい(笑)なのですが、もし、シルベチカが死んだ後でも、リコリスがずっとそばに寄り添っているのではないかと考えると、リコリス深草少将がオーバーラップするんですよ。

ですから、舞台も、『リリウム』本編の中で語るのではなくて、本編からグッと後世に、10000年の後。クランも朽ちてなくなり、ただ庭師が育てた庭だけが名残をとどめているというような設定にしたほうが面白いと思うんですね。

能では『通小町』のように「その現場近くをたまたま通りかかる僧侶」が脇役として登場することが多いので、ここでは西洋風に「修道士が通りかかる」ということにしましょう。

むろん、何のきっかけもなく通りかかるのはおかしいので、『リリウム』の設定になぞらえて、「ヴァンプの群れが暴れて壊滅寸前の村があって、その救援に向かうのに近道をする森の中でたまたま見つけた」というのはどうでしょうか。

『リリウム』の世界観も尊重しながら、能の世界に引き込めると思います。



次回は、これらを踏まえて、大まかなプロットの構成に進みたいと思います。