能はどうやって作られるのか。


自分としては、『リリウム』の内容がそのまま能になるとは思えません。



内容が複雑ですし、一部を切り取るにも、どこを切り取ったらいいかがわかりません。

能と同じ生死がテーマの重い内容ですが、これをそのままというのは能のスタイルとしてどうかと思っちゃいます。

能のスタイルというと、既存のあるストーリー、たとえば『源氏物語』や『平家物語』などの小説・説話や日本各地に伝わる伝承などをもとに、だいたいその後日談的なものを、オリジナルストーリーとしてなぞらえるものがほとんどです。

たとえば『経政(つねまさ)』という能。主人公は平経正(たいらのつねまさ)で、平家の公達。平経盛の長男。悪名郄き平清盛の甥にあたります。

史書によれば、一ノ谷の合戦に参戦し、源氏・川越重房の軍勢に討ち取られたとありますが、能で劇化された内容はそこにありません。

平家物語』に、経正は「青山(せいざん)」という琵琶を天皇家から拝領され、仁和寺の門跡*1覚性入道親王の御前で弾いていたとあります。

能ではそこに取材し、経正が討ち死にしたと聞いた仁和寺の僧・行慶僧都が、経正の霊を弔っていると、そこに夢か幻のように経正の亡霊が表れ、生前の自分を思い出すかのように舞を舞い、やがて修羅道の苦しみから逃れるように消えていく、というような内容にアレンジがしてあります。



※能『経政』のイメージ写真。
烏帽子と太刀の他は能装束。甲冑姿の武者を記号化したもの。



また、『野守」という能では、古今集にある

箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん  詠み人知らず

という歌を世阿弥が取材し、着想を得たものと言われます。

この歌は、雄略天皇が春日の森に鷹狩をした折り、肝心の鷹が行方不明になったのを探すと、森の奥の池に鷹の姿が映っているのを発見したことにちなんで詠まれたもので、以来この池を「野守の鏡池」というようになったそうです。

能『野守』ではこの池を、地獄の鬼が持つ「浄玻璃の鏡」になぞらえて、物語が展開していきます。



※能『野守』のイメージ写真。地獄の鬼が、鏡を捧げ持っている。



ざっくり言うと、物語のある一場面をちょっと切り取って、アレンジし、一つの演劇作品に押し広げていくというのが能の作り方です。


すなわち、能こそ「コミケ文化=二次制作文化」の元祖の様な存在と言っていいでしょう。

*1:もんぜき。天皇家の血筋を持つ、その寺の主